今回は古代ギリシャ哲学の基本用語であるテクネー(技術知)について解説していきます。
一種の技術知信仰は近代以降始まるのですが、その根っこにあるのが古代ギリシャの[テクネー]です。
テクネーについては古代ギリシャの2大哲学者であるプラトンとアリストテレスが、それぞれの仕方で定義しています。
アリストテレスの[テクネー]は、フロネーシス・エピステーメー・ソフィア・ヌースとセットで解説します。
※「フロネーシス・エピステーメー・ソフィア・ヌース」はハリー・ポッターの呪文か何かと思うかもしれませんが、れっきとした哲学用語です。
目次
1.テクネーとは【プラトンver】
まずはプラトンにおけるテクネーの意味を確認しましょう。
プラトンはテクネーを[作る技術]と[獲得の技術]を包括するものとして捉えました。
1-1.作る技術
農業や生き物を育てる仕事、道具を作る仕事、模倣する技術といった技術と芸術全般のこと。
[模倣する技術]というのは、いわゆるミメーシスのことで、プラトンがボロクソに叩いたやつです。
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1-2.獲得の技術
すでに存在しているものを言葉や行動によって手に入れること。
このように、プラトンにおけるテクネは物を作ったり、既にあるものを手に入れたりと幅広い意味があるようです。
2.テクネーとは【アリストテレスver】
次はアリストテレスにおけるテクネの意味です。
アリストテレスは「プラトンにおけるテクネー」の[作る]と[既にある]という正反対にありそうな2つの意味を見事に統合します。
2-1.テクネー(技術知)とは
[すでに自生しているもの =ピュシス(自然)]から道具や芸術作品を制作(ポイエーシス)する際の知の働き。
プラトンは[自生するものとしてのピュシス]という考え方をあまりしないのですが、アリストテレスはモロにします。
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また、テクネーを基にしたポイエーシスはピュシスくらいに偉大なことと位置付けていたようです。
2-2.二通りの現前の仕方
アリストテレスは何かが現前してくる際の運動を以下の2通りに捉えていました。
- 自然(ピュシス)→植物のような自然的存在者を現前させる運動。自然的存在者には運動の原理(アルケー)である[自然(ピュシス)]が内在している。
- 制作(ポイエーシス)→道具や芸術作品のような制作物を現前させる運動。この場合、運動の原理(アルケー)は[技術知(テクネー)]で、制作物の外部(たとえば彫刻家)に内在している。
例えば、ミロが大理石からヴィーナス像を作るとき、
ミロは大理石の内にヴィーナス像という[形相(エイドス)]を感知し、大理石を削ることでヴィーナス像を取り出します。
つまり、芸術家も形相を現前化させていると解釈できるのです。
これこそが、アリストテレスが芸術を評価している理由で、「イデアの2重の模造品」として芸術を蔑むプラトンとは違う点なのです。
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3.フロネーシス、エピステーメー、ソフィア
ところでアリストテレスは、テクネーを真理を手に入れる魂の5つの働きのうちの1つとして考えていたようです。
その5つとは、テクネー(技術知)フロネーシス(思慮)エピステーメー(学知)ソフィア(英知)ヌース(直観知)です。
[ヌース(直観知)]は観想(テオリア)に関わるものでした。
テクネーについては今まで見てきたので、残りのフロネーシス、エピステーメー、ソフィアについて解説します。
3-1.フロネーシス(思慮)とは
フロネーシス(思慮)はプラクシス(実践)に関わります。
哲学では伝統的に実践は制作の下位に置かれるということは以前も書きましたが、
アリストテレスはフロネーシスを軽視している感じでもなく、むしろ善く生きるために必要なものと位置付けています。
フロネーシスは倫理・政治的領域の実践に関わる知で、社会全体をより善くするためのものです。
定義的には、
思慮(フロネーシス)とは
快苦に関わる衝動や欲望などの魂の不安定な部分を手なずけ、魂を中庸(メソテース)の状態にする能力。
となります。
3-2.エピステーメー(学知)とは
エピステーメー(学知)は自然法則や数学に関する知識のことです。
「日は東から昇る」などの自然法則や数学は普遍的な知識ですよね。
これらを認識する能力がエピステーメーです。
普遍的なものだということを強調するために「個々人の臆見(ドクサ)に惑わされない」という説明もされます。
しかし、おそらく多くの方は、エピステーメーはフーコー哲学の用語だと思っているのではないでしょうか。
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3-3.ソフィア(英知)とは
ソフィア(英知)の定義はかなりわかりにくいです。
ソフィアはフィロソフィア(philosophia)の一部にもなっているくらいですから、古代ギリシャではメジャーな言葉のはずなのですが、
厳密な定義とは何かと聞かれたらわかり辛いです。
しかし一応言っておくと、アリストテレスは「技術の徳(アレテー)がソフィアである」と考えていたようです。
また、直観知(ヌース)のように、観想(テオリア)と関わるとも言われています。
4.保守思想との関係
最後に、先ほど述べた「実践は制作の下位に置かれる」について補足します。
これを言い換えれば「実践知は技術知の下位に置かれる」となりますが、保守思想はこの考え方に批判的なようです。
技術知とは(科学にその見本をみるような)「合理的に体系化された知識」のことである。そしてそれはプラクティカル・ナレッジつまり「実際知」の対極にある。技術知とは(職人の技能を典型例とするような)「人々の実践のなかで、それゆえ物質・エネルギーと分かち難く結びついて、その効能が確かめられる知識」のことをさす。換言すると、技術知は定型化されやすく、実際知は定型化を為し難いということである。
出典元:西部邁『保守思想のための39章』
※技術知は[テクニカル・ナレッジ]とも言われます。
西部邁氏の書き方は難しいですが、「技術知信仰は止めよう」みたいなことです。
※詳しくは