「ピタゴラス」ではなく「ピタゴラス教団」で検索をかけるような通な方はご存知かもしれませんが、
ピタゴラスは…
- 偉大な数学者にして哲学者である→ウソでした。
- ピタゴラスの定理(三平方の定理)を発見した→ウソでした。
- 「哲学」という言葉を最初に使った人物である→ウソでした。
- 諸天体は運行や公転の速さによって様々な協和音を作り出しているという「天体音楽説」を唱えた→ウソでした。
- 名言「万物の根源は数である」→言ってませんでした。
- ピタゴラスではなく「ピュタゴラス」が正しい発音→その通りです。
- 偉大な数学者・哲学者で宗教家でもあったのは誰だ→パスカルです。
このように、ピタゴラス改めピュタゴラスは非常に魅力的な男です。
今回は彼の実像、およびピタゴラス教団の実態に迫っていきます。
目次
1.ピタゴラスとは
冒頭でピタゴラスをけちょんけちょんに言いましたが、実のところ確かな情報が少ないので何とも言えないのです。
冒頭で一通り言った「ウソでした」は、厳密には「現在では『ウソだ』という見方が強い」という感じです。
したがって、実際は本当に滅茶苦茶すごい人物だった可能性もあります。
1-1.極端な秘密主義者
では、なぜ確かな情報が少ないのかというとピタゴラスが教団の内部情報を口外することを固く禁じていたからです。
口外した者は、なんと海から突き落として死刑にしていたとか。
「口外無用」「口伝による教義の継承」というのはメンバーの結束を固めるために宗教団体ではよく行われます。
「宗教団体では」と言いましたが、ピタゴラスの組織はもともと宗教団体です。「ピタゴラス学派」という言い方もありますが、
数学・幾何学・音楽・天文学の研究へ傾倒し学問色を強めていったのはピタゴラスの死後と考えられているので、
やはり、彼の結社は「ピタゴラス教団」と言った方がシックリくるのです。
1-2.カリスマ的宗教家
ピタゴラス本人も宗教家であり教祖であったということ以外には確かな資料はありません。
来歴をまとめると…
紀元前582年エーゲ海のサモス島で生まれまる。40歳の時にポリュクラテス王が僭主制を始めたのに反発し、イタリアのクロトンへ移住した。
このクロトンで講話活動や宗教活動を始めたわけです。
彼の教説によれば…
- 人間の魂は本来は不死であり神聖なものであるが、この現実では堕落しており肉体(ノーマ)という牢獄に閉じ込められている。
- 浄め(カタルシス)によって神聖な世界に戻らなければ輪廻転生をくり返してしまう。
なんとなくプラトンの「イデア論」に似ていますよね。
準備中
実際、プラトンはピタゴラス教団の一員であるアルキュタスから影響を受けたと言われています。
※ピタゴラス→紀元前582年~紀元前496年。アルキュタス→紀元前428年生まれ。プラトン→紀元前427年生まれ。
実はピタゴラスの教義は当時の民間人に根づいていたオルフェウス教に似ており、あまり斬新ではありませんでした。
と言っても、カリスマ的人気があったようなので講義が上手かったのかもしれません。
当時、ピタゴラスの魅力は絶大だったようで、彼の講演を聞いた聴衆600人がその場で家族を捨て、教団に走ったという記録もあるほどである。
出典元:INRI 委員会『「ピタゴラス教団」の謎』
信じるか信じないかはあなた次第です。私は信じません(´・ω・`)
でも、熱狂的な支持者は多くいたようで、同時にこのカリスマ性が身を滅ぼすことにもなります。
1-3.最期の時
クロトンでの活動は順風満帆でピタゴラス教団は政治的影響力を持つまでになりました。
ピタゴラスも弟子の一人であるテアノという女性と結婚したそうです。なんとその時の年齢は60歳!(テアノの年齢は不明)
そして、7人の子どもを持ったと言われています。
紀元前510年ごろに、教団への入門を断られたキュロンという人物が中心となってピタゴラス教団への反乱が起こります。
教団の集会所は焼き討ちに合いその時にピタゴラスは殺されたとも、
メタポンティオンに亡命して、そこで紀元前496年頃に生涯を閉じたとも言われています。
それにしてもキュロンが暴動を起こした理由が「教団への入門を断られた逆恨み」というのがすごいですね。ちなみに、
ピタゴラス教団に入門するには彼らによる「人相占い」に合格しなければならなかったようです。
「お前は眉毛が吊り上がり過ぎているからダメだ!」とか「お前は鼻がデカすぎる!」とか言われて入門を断っていたのでしょうか。
キュロンが逆恨みするのも何となくわかりますよね。
1-4.ブラット・ピットor源田壮亮
ピタゴラスの人となりについてまとめておきましょう。
ピタゴラスは40歳で宗教活動をするまで何をしていたのか、一応オリエント世界を20年間放浪していたと言われています。
エジプトやフェニキアで数学や幾何学や天文学、そして宗教の理にも触れたそうです。
このように知識欲が非常にある反面、前世の記憶を持つという不思議な人物でもありました。
ちなみに身長は180cmを超え、筋肉質な肉体美を誇っていたそうです。映画『トロイ』の時のブラット・ピットみたいな感じでしょうか。
© 映画『トロイ』より
しかし、ピタゴラスの情報に関しては誇張や偽情報が多いため、
当サイトでは埼玉・西武ライオンズの源田壮亮のような体形(179cm/75kg)だったと予想しています。
© bb-news.jpより
2.ピタゴラス教団とは
次はピタゴラス教団の話をしましょう。
ピタゴラスがオリエント世界で数学・幾何学・天文学といった学問を習得したというのが本当ならば、
ピタゴラス教団は当初から「宗教+学問」という後世のわれわれがイメージしているような様相を呈していたのかもしれません。
そこらへんの事情はわかりませんが、ピタゴラス教団は秘密主義と原始共産制を敷いていたのは確かなようです。
団員はピタゴラスを頂点に緊密に団結し、内部にあってはさまざまな戒律の下に禁欲的、厳格な生活を送り、きわめて排他的であった。また財産の共有を原則とし、それを教団内の学問研究の結果にも適用したため、ピタゴラスの業績と門弟の業績とを区別することは、すでにアリストテレスのころには困難となった。
出典元:日本大百科全書(ニッポニカ)
このようなミステリアスな集団ですが、キュロンによる暴動のその後から話を進めて行きましょう。
2-1.解散と分派
紀元前510年頃のキュロンによる暴動でピタゴラスは死去、あるいは亡命したためこの時点で彼は教団にはいません。
また、政治活動も停止します。
その後もピタゴラス教団は存在していたようです。ところが、紀元前450年頃に再び反ピタゴラス教団の暴動が起こりました。
これが致命的で、ほとんどの教団員は命を落としピタゴラス教団は解散、一部はギリシャ本土のテーバイやプレイウスに移りました。
2-2.ピタゴラス教団の代表的人物
ピタゴラス教団の残党は
- ピタゴラスの口頭の教えを遵守する聴聞派(アクスーマティコイ)
- ピタゴラスの教義をさらに学問的に深めることを目標とする学究派(マテーマティコイ)
に分かれます。そして学究派が次第に勢力を増すのですが、彼らは非常に優秀だったそうです。
代表的人物は
- ヒッパソス(紀元前538年)→数学・幾何学・音楽・天文学・哲学などの研究を教団内で大々的に始める。学究派の創設者。
- フィロラオス(紀元前470年)→地動説のようなものを史上で初めて唱え、後のコペルニクスに大きな影響を与えた。
- アルキュタス(紀元前4世紀前半)→紀元前4世紀初頭に本拠地をイタリアのタラスに移しプラトンに影響を与えた。
冒頭でも触れた「天体音楽説」や「万物の根源は数である」というピタゴラス教団の代名詞とも言われているテーゼは、
現在ではヒッパソスやヒッパソス以降の実績だと言われています。
フィロラオスはピタゴラス教団の教義を初めて公にし(その結果教団から追放される)、アルキュタスは初めてピタゴラス教団の著作を残しました。
後世のわれわれがピタゴラスやピタゴラス教団について知ることができるのも彼らがいたからだと言えます。
2-3.消滅・復活・偽造
その後、ピタゴラス教団は紀元前4世紀終わり頃に消滅します。
なんと紀元前1世紀のローマで彼らは復活します。
そして、紀元後1世紀までに彼らが何をしていたのかというと、ピタゴラスやピタゴラス教団を著者名にした大量の偽作文献を作ったとのこと。
内容的にはプラトンやアリストテレスの影響を受けたものなのですが、逆にこの偽作文献のおかげで、
プラトンやアリストテレスの先駆けで、数学の天才にして哲学者でもあったという今日におけるピタゴラスのイメージ
は作られたわけです。
実際には、ピタゴラスは厳密な秘密主義者で著作は残していません。
特に現在ではヒッパソスの存在が重視されており、ヒッパソス以前から教団内で学問の推奨はあったのかもしれませんが、
元来ピタゴラスのものだと考えられてきた様々な功績は「ピュタゴラス教団」の功績だと考えられるようになったのです。