今回は「実践」あるいは「実践知」、ギリシャ語で「プラクシス」と呼ばれる概念について解説します。
メインは保守思想における「実践知(プラクシス)」の解説なのですが、元々は古代ギリシャで成立した言葉なので、
まずは古代ギリシャにおける「実践知(プラクシス)」の意味を確認しましょう。
1.古代ギリシャのプラクシス
アリストテレスは活動の種類を3つに分けます。
- 実践(プラクシス)→ 何らかの理論、法、計画などに基づいて行動すること。思慮(フロネーシス)を用いた活動。
- 製作(ポイエーシス)→ モノを作ること。技術知(テクネ―)を用いた活動。
- 観想(テオリア)→ 感覚では把握できないものを直観すること。直観知(ヌース)を用いた活動。
この内、[観想]と[技術知]には以前触れました。
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また、実践知は[技術知]と比較されがちですが、アリストテレス的定義では技術知と比較されるべきは[思慮]の方です。
そもそも、アリストテレスは[実践知]という言葉は使ってないと思うのですが、そこら辺はこだわらなくても良いでしょう。
1-1.肉体労働と頭脳労働
①②③は数字が大きくなるにつれて質が上がっていくとされています。理由はこんな感じです。
- 実践は思慮に基づいているため、場当たり的な行動よりも高位である。
- 製作は活動の目標や規範を作る行為なので、実践よりも高位である。
- 観想はそれ自体が深い満足感をもたらすので、他の二つとは別格である。
観想は別格として、実践(プラクシス)よりも製作(ポイエーシス)が高位だとされていることに注意しましょう。
現在でも肉体労働よりも頭脳労働の方が高次とされがちなのと同じです。
1-2.実践は製作に従う
これは別の記事でも書いたことなのですが、実践(プラクシス)と製作(ポイエーシス)の関係を整理すために、もう一度書こうと思います。
建物の設計者と大工の関係を考えてみましょう。
※設計者 →製作をする。大工 →実践をする。
この場合、設計者はその建物の目的や設計図を知っているため、より原則に近い存在とされます。
哲学は原理を見つけ出す学問なので製作や技術知の方が上とされるのです。
よって、「実践は製作に従う」という構図ができるのですが、これを批判するのが保守思想です。
2.保守思想における実践知
言い換えれば「実践知は技術知に従う」のですが、これを批判するのが保守思想です。
思想家の西部邁氏は以下のように分類します。
- 技術知 → 各個人の生活感覚から切り離された知識の体系。
- 実践知 → 各個人の生活感覚に根差し、その効能も確かめられる知識。
技術知を確立するのは偉大なことですが、実践知をないがしろにしていると形骸化し主体を画一化させ、
さらに、危機(クライシス)に対応できなくなります。
2-1.一回かぎり = 自分だけの体験
実践知は個別具体的な現状・現場で生き抜くための知識です。
アリストテレスが生きた時代の哲学は個別具体的なものを軽視する傾向がありました。
各人の感覚や感情は気まぐれで、普遍的な知識にはなり得ないからです。
そこで、おおよその人に当てはまるような原則やルールを作り出す製作・技術知が重宝されます。
ですが保守思想は、まさにこの[気まぐれな感覚や感情]に価値を見いだします。
気まぐれな感覚や感情は「一回かぎりの出来事」を生じさせるのですが、
人間の行為は、本質的には「一回かぎりの出来事」として生じ、それゆえそれに確率分布を想定することはできない。そしてこの「一回かぎりの出来事」という人間的現象の根底には、人間には新しい仮設を考え出す可能性はつねにあるという事実が横たわっている。
出典元:西部邁『保守思想のための39章』
西部氏の記述はかなり難しいですが、このように考えてください。「確率分布を想定する」というのは、例えば、
良い大学に行って良い企業に勤めてマイホームを買って…などの
「大体このように生きれば良い人生ですよ」というライフスタイルを規定するということです。
このようなライフスタイルに沿っていれば、ある程度は自信をもって生きられるかもしれませんが、
自分は一体何者なのか、迷う時も来るかもしれません。
文化・世間に技術知が浸透して、技術主義の価値・規範と習俗・習慣が確立されると仮定すれば、いわば上部構造と下部構造が一体化するので、情報社会も安定的になるとひとまずは考えられる。しかしこの種の技術主義的な社会観はかならず挫折する。それは、定型化された振る舞いをしかなしえないサイボーグ(人造人間)の集団についてのみ有効な社会論にすぎない。
出典元:同上
これまた難しい文章ですが、
技術知への傾倒は「定型化された振る舞いをしかなしえないサイボーグ(人造人間)」を量産しかねないということです。
2-2.実存哲学とも関係
こういった問題意識は実存哲学や実存主義でも見られます。
いわゆる「自分は自分である」という感覚が失われる[アイデンティティ・クライシス]にどう対応するのか。
保守思想が特異なのは実践知にその解決を求めるというところです。
と言っても、実践知に傾倒するのではなく実践知をないがしろにしないというニュアンスです。
- 学校や情報番組で習う知識だけではなく、実際に自分が経験したことや会話の中で学んだ知も重視する。
- そのような体験こそが精神の土壌になる。
そういった意味では、実践知は知識というよりも体験に近いのかもしれません。
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