今回はメノナイト(Mennonite)の紹介をします。
当サイトは宗教への理解を目的としており、特定の宗派の信者を増やす力はもっていません。
というわけで、まずはメノナイトの客観的なデータを記述します。
- 【指導者】メノ・シモンズ
- 【設立年】1536年
- 【発祥地】オランダ
- 【別名】メノー派、19世紀まではメ二スト、メノ二ストとも
- 【主な地域】オランダ、南ドイツ、アルザス、北アメリカ
- 【信徒数】アーミッシュなども含めた広義のメノナイト系としては160万人以上
- 【名前の由来】指導者メノ・シモンズ(1496-1561)にある
彼らは徹底した平和主義者であり、その信念が活動やライフスタイル、そして迫害の歴史にも繋がります。
これらを手掛かりにメノナイトについて学んでいきましょう。
目次
1.きっかけはアナバプテスト
16世紀は宗教改革の世紀ですが、宗教改革はルターやカルヴァンによるものだけではありません。
1534-35年のアナバプテスト(再洗礼派)による運動もこれにあたります。
※宗教改革については
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1-1.アナバプテストとは
アナバプテストは幼児洗礼を否定し、政教分離を唱えます。
[洗礼(バプテスマ)]は非常に重要な儀式で、当時は幼児の頃に洗礼を受けたか否かが救いの絶対的な条件とされていたようです。
よって、当時の西ヨーロッパのほぼ全ての人は幼児の時に洗礼を受けていました。
それに対し、アナバプテストは
幼児は自分の信念で洗礼を受けることができないので幼児洗礼を認めず、信仰に自覚を持った者に対する洗礼しか有効ではないと主張します。
当時は洗礼を2回受けることは非常に忌避されていたため、当然彼らは敵視されます。
また、[政教分離]は社会秩序を乱すと見なされました。
これらの理由でアナバプテストはカトリックからもプロテスタントからも異端とみなされ迫害されたようです。
そんな社会情勢の中、カトリックの司祭だったメノ・シモンズはアナバプテストに加わります。
これがメノナイトの始まり(1536年~)です。
※キング牧師なども入信した[バプテスト]というグループもあることに注意しましょう。
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1-2.メノ・シモンズとは
メノ・シモンズは途中からアナバプテストに途中から加わるのですが、彼がアナバプテストに与えた影響は莫大だったと言われています。
というわけで、メノ・シモンズの生涯をまとめましょう。
- 【1496】オランダのフリースラントで貧しい農民の子として生まれる。
- 【1524】カトリックの司祭になる。
- 【1534】アナバプテスト運動が開始。メノも影響を受ける。
- 【1535】アナバプテストだった弟が運動のさなかに殺害される。
- 【1536】カトリック教会に見切りをつけ、アナバプテストの一員に。
- 【1561】ドイツのホルシュタインで生涯を閉じる。
メノ・シモンズは弟を殺され深い悲しみに暮れたにもかかわらず、自身は非暴力を貫きました。
現在でもメノナイトは「暴力的な抵抗手段を使わない平和活動」を実施しているのですが、それはメノの初心でもあったようです。
また、弟が死んだことでアナバプテストに対する弾圧の強さを実感したのにもかかわらず、自身もアナバプテストに加わったわけですから、
メノ・シモンズの信仰心や使命感は相当強かったと言えるでしょう。
1-3.プロテスタントとアナバプテスト
プロテスタントとアナバプテストの関係について補足します。
アナバプテスト系のグループもカトリックに抗議(プロテスト)した人々なので大きな流れとしてはプロテスタントに属します。
しかし、先述したようにアナバプテストたちはプロテスタントからも弾圧されています。
そのような歴史があるためか、日本メノナイト足寄キリスト教会は、
カトリックとプロテスタントという、よく世界史などで出てくる分類で言うとプロテスタントの流れになりますが、実際には当時のプロテスタントから更に枝分かれした「アナバプテスト(再洗礼派)」と言う系統に属します。
出典元:日本メノナイト足寄キリスト教会
このように、アナバプテストとしてのアイデンティティーを強調しているようです。
ちなみに、アナバプテスト系のグループには、
- 千年王国を支持 → ミュンスター派、ホフマン派など
- 平和主義・非暴力→ メノナイト、フッタライトなど
があり、現在でも残っているのはメノナイト系、フッタライトのみであるということも押さえておきましょう。
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2.メノナイトの信念
アナバプテスト系の人々が次々に消えてゆく中で(16世紀だけで数千人が殉教)メノナイトはオランダで厳しい迫害を耐え抜き、
一部はヨーロッパ各地や北米に移住することで、様々な地域で信者を獲得し教えを伝播していきます。
その後の展開はというと、
他のヨーロッパ諸国でも迫害を受け続けます(ただし、この時のオランダやアメリカは比較的寛容だったようです)。
迫害を受ける度にメノナイトは結束力を固めていきました。
2-1.兵役の拒否と質素な暮らし
もともと彼らが勤勉だったということもあるのでしょうが、メノナイトが時の権力者たちから認められるには
いくら不毛な土地であろうと勤勉に働き、税を納めるしかありませんでした。また、兵役を免除してもらうためにも高い税金を払いました。
メノナイトは非暴力の平和主義者なので兵役を拒むわけですね。
また、もともと彼らはイエス・キリストにならった質素な暮らしを志していたのですが、この時の搾取によりその傾向は強まります。
メノナイトにとっては物質的な豊かさよりも信仰心、そして仲間同士の助け合いが重要だったのです。
2-2.アーミッシュの登場
アナバプテストには破門制度がありました。
規律を破った者を追放したり、絶縁したりしていたわけです。
しかしメノナイトでは、時代を経るにつれてこの制度が緩くなります。
この流れを不服に思い、1693年にメノナイトから分派したのがヤコブ・アマンを中心としたアーミッシュです。
アーミッシュはメノナイトに比べて保守的で戒律が厳しく、閉鎖的であると言われるのはここに理由があります。
3.メノナイトとアーミッシュの違い
アーミッシュが出てきたのでアーミッシュと比較する形でメノナイトの特徴を捉えていきましょう。
3-1.両者の比較
両者は平和主義・共同体の絆の強さ・兵役を拒否し公職にもつかないという思想信条は共通していますが、
- メノナイト →難民救済や災害救援などのボランティアを積極的に行う。
- アーミッシュ → 慎ましやかで共同体での暮らしを重んじる。
大まかに言えばこのような違いがあります。
アーミッシュは18世紀に先人が北アメリカに移住した当時の暮らしを原則的に守り、ひっそりと慎ましやかに生活にしているイメージです。
それに対し、
全人類の平和と救いのためにご生涯をささげられたキリストの生き方に従って、メノナイト教会は難民救済や災害救援などの奉仕をし、開発・医療・教育などの分野で、国の内外を問わず、人的・物的援助の自発的活動を行っています。
出典元:同上
このように積極的にイエス・キリストにならった「全人類の平和と救い」のための活動を展開しているようです。
3-2.オールド・オーダー・メノナイトとは
ライフスタイルにおいても両者はよく比較されます。
両者はいずれも現代文明をなるべく取り入れない生活様式を維持していますが、メノナイトの方が文明に対しては寛容です。
例えば、
- メノナイトは自動車を使うが、アーミッシュでは馬車を使う。
- メノナイトは電化製品を使うが、アーミッシュではガソリン式の洗濯機などを使う。
などの比較はよくなされます。
しかし、電機や電話や自動車を使わないのはアーミッシュの中でも保守派にあたるオールド・オーダー・アーミッシュと呼ばれる人々です。
アーミッシュの中にもいろいろなグループがあって、どの程度文明を取り入れるかはグループごとに違うわけですね。
また、注意して欲しいのは、
オールド・オーダー・メノナイトと呼ばれる人々はオールド・オーダー・アーミッシュ並みに非文明的な暮らしを大事にしています。
ただ、全体的に見れば[メノナイトのグループ]の方が[アーミッシュのグループ]よりも文明化しているとは言えるでしょう。
※オールド・オーダー・アーミッシュのライフスタイルについては