ダイモーンの正体とは | ベルクソン、フロイト、カント的説明


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今回はソクラテスを語る上で非常に重要なキーワードである「ダイモーン(あるいはダイモニオン)」について解説していきます。

ダイモニオンとは[ダイモーン的なもの]という意味です。

「じゃあ、結局ダイモーンって何なんだよ…」と煙に巻かれた気分になった方も多いでしょうから、

まずは古代ギリシャにおけるダイモーンの意味を整理しましょう。

ダイモーン(daimon)とは

  • 人間と神々の中間に位置する精霊的な存在。下位の神的な存在。
  • 神的な領域にいる存在ではあるが神々ではなく、伝達の役割を担う。[人間→神]人間の嘆願を神々に伝える。[神→人間]神の慈愛や命令を人間に伝える。

これはプラトンの著作対話篇『饗宴』に出てくる定義なので、ソクラテスもこのような意味で「ダイモーン」を捉えていると考えられます。

※『饗宴』はソクラテスたちが[美]や[愛]について語り合う作品。

このように古代ギリシャでは悪い意味合いはなかったのですが、

キリスト教が西洋文化を席捲するに従い、段々と邪悪な存在と捉えられるようになり[悪魔]を意味するようになったのです。

「ダイモーンはデーモンの語源である」と言えばわかりやすいかもしれません。

しかし、今回はあくまで「デーモン」ではなく「ダイモーン」の解説をして行きます。

1.「ダイモーンを祭る」という罪

紀元前399年ソクラテスは告発されます。その際の罪状の一つが「ダイモーンを祭った」でした。

まあ、確かに不気味な感じはしますが、それに対してソクラテスは裁判中に以下のような釈明をします。

諸君は、私が方々で話しているのをしばしば聞いたことでしょうが、私にはなにか神的なもの、すなわち、ダイモーン的なものが現れるのです。(…)これは、私の子供時代から始まり、ある種の声として現れ、それが現れる時には、つねに私が為そうとしていることを妨げ、けして勧めることはないのです。

出典元:プラトン『ソクラテスの弁明』

謎は深まるばかりという感じなのですが、一応ソクラテスの主張をまとめるとこうなります。

  1. ダイモーンとは[行動を禁止する何か]である。
  2. さらに言えば、ソクラテスは「ダイモーン的なものが現れなかったらその行為は問題がない」という指針として活用している。

生死に関わる場面でも活用されます。

ソクラテスはこの裁判で死刑になるのですが、彼が死を受け入れたのはダイモーンによる禁止がなかったことが影響しているようです。

それ程までにソクラテスにとってダイモーンは重要だったわけですね。

※ソクラテスは「悪法も法なり」と言って死刑を受け入れたという逸話もありますが、現在は否定されつつあります。

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いずれにせよ、ソクラテスに何か悪巧みを積極的に命令したり、他人をそそのかしたりするものではありません。

2.ダイモーンの正体

それでは結局、ソクラテスのダイモーンとは何だったのでしょうか。岩田靖夫氏はこのように言います。

とにかく、それは、なにか精神の内面から人を突き動かす超越的な力であろう。常識的に言えば、良心の声と理解できるであろう。類似の例として、論者はここでカントの定言命法を引き合いに出したい。

出典元:岩田靖夫『ギリシア哲学入門』

というわけで、まずはダイモーン = 定言命法説を検討していきましょう。

2-1.カントの定言命法説

[定言命法]は基本的に「~せよ」というような命令形で表せます。「無条件の義務」と言っても良いかもしれません。

このままでは禁止命令として現れるダイモーンとは真逆になってしまいますが、カントの定言命法には、

「各人は他人の自由を侵害してはならない」という禁止の条件も含まれます。カントの言葉を引用すると、

汝の行動の格率が普遍的立法の原理になるように行為せよ

カントの定言命法の解説は今回は割愛しますが、カントによると、

定言命法は各人の経験に関係なく自明のものとして存在し、人類に普遍的、つまり各人の上位に位置する

という性質のものであるため、そういった意味ではソクラテスのダイモーンに類似しています。

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2-2.超自我説

ダイモーンが「良心の声」ならば、まず考えられるのはダイモーン = 超自我という可能性です。

[超自我]はフロイトが創設した精神分析の用語です。

超自我とは

自分の行動を無意識的に抑制する心の機能のこと。通常は社会的規範を内面化したもの。

これは主に親のしつけを通じて幼少期に形成されるもので、

社会的規範から逸脱する行為をしようとした場合後ろめたく感じるとか、そういった行為をしたら罪悪感を感じるとかの類のものです。

超自我の強さは個人差ありますが、ソクラテスのダイモーンは、

  • 自分の生死すら左右するほど強力である。
  • [社会的規範から逸脱する行為]ではなく[善や美から逸脱する行為]をしそうになった時に現れる。

という特徴があるためかなり特殊であることがわかります。というか、

むしろソクラテスはデリカシーがなく非常識な方な人間です。

アポなしで政治家や知識人を訪問し[善や美]という抽象的な質問を投げかけ、せっかく答えてくれた相手に対し「コイツは無知だ」と思う。

そんなことが度々です。

というわけで、ソクラテスのダイモーンは一般的な超自我とは違うのですが、無意識的に働くものであるため、

何らかの存在を内面化したものではありそうです。

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2-3.超自我説(応用編)

再び岩田氏の発言を引用します。

ソフィストは、ひたすら合理性のみを尺度にして、宗教、道徳、伝統、慣習、国制を批判し、その破壊的批判を制御するなんの超理性的な制約も持たなかった。ソクラテスはそうではない。ソクラテスには、ダイモニオンの禁止を根本とする、様々な超理性的制約(デルフォイの神託、オルフィズムの神話など)があった。

出典元:同上

※ソフィストについては

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[様々な超理性的制約]とは内面化された神的なものという意味です。

実は

ソクラテスは哲学者というよりも宗教家っぽい人でした。

普通の超自我[内面化された社会的規範]ならば、

  • 困っている人をシカトするのは後ろめたい。
  • 昨日、夜食でラーメンを食べたことを後悔する。

などと言った形で確かめやすいのですが、[内面化された神的なもの]は普通の人には理解しがたいでしょう。

当時のギリシャ人は様々な儀式や祭儀で神々を拝んでいたので、彼らにとってもソクラテスのダイモーンは異様な存在だったのかもしれません。

2-4.直観説

フランスの哲学者ベルクソンはダイモーンを独自の視点で捉えます。

ベルクソンによると「ダイモーンとは[直観]である」

[直観]というと考えるのが面倒くさい人が当てずっぽうで行動することのように思われるかもしれませんが、

ベルクソン哲学においては違います。

※そもそも[直感]と[直観]は違います。

直観は禁止するのです。一般に受け入れられている考えや、明らかだと見れらている学説や、科学的であるとして通用している主張を前にして、直観は哲学者の耳元で「ありえない」とささやくのです。

出典元:ベルクソン『思考と動き』

この[直観]は強い禁止というより「なんとなくおかしい」と感じる類のものです。

「なんとなくおかしい」と感じた後に「なぜおかしいのか」という思考が働きだすというわけです。

よって

[直観]は洞察力や論理力とは別物だと言えます。

ソクラテスは洞察力、論理力ともに秀でた人物でしたが、

それとは別に稼働する[直観]はソクラテス本人にも得体の知れない、まさにダイモーンのような存在だったのかもしれません。

以上です。ありがとうございました。
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