今回はバプテスト教会(baptist)の紹介をします。
当サイトは宗教への理解を目的としており、特定の宗派の信者を増やす力はもっていません。
というわけで、まずはバプテスト教会の客観的なデータを記述します。
- 【指導者】ジョン・スミス
- 【設立年】1609年
- 【創設地】オランダのアムステルダム
- 【別名】浸礼教会
- 【主な地域】北アメリカとアフリカ
- 【信徒数】4000万人以上
- 【名前の由来】洗礼(バプテスマ)の方法を厳選したから(詳しくは後述)
アメリカ合衆国はカトリックよりもプロテスタントが盛んなのですが、
プロテスタント諸派の中でも最も信者数が多いのがバプテスト教会です。
というわけでアメリカではお馴染みの存在なのですが、日本では西南学院大学や関東学院大学などがバプテスト系の大学なので、
九州や関東の人には比較的馴染みがあるかもしれません。
目次
1.バプテスト教会【黎明期】
バプテストは名前的にアナバプテスト(再洗礼派)に先行しているようですが、実際は逆で、
アナバプテストに影響を受けて生まれたのがバプテストです。
1-1.アナバプテスト(再洗礼派)からの影響
アナバプテスト(再洗礼派)は幼児洗礼を否定します。なぜなら、幼児は信仰に無自覚だからです。
要は、アナバプテストは信仰を自覚した者に対する洗礼のみが有効だと主張したわけですね。
幼児洗礼が当たり前の時代にこのような主張をしたわけですから、彼らは大きな反発を浴びました。
現在ではアナバプテスト系のグループはメノナイト系とフットライトのみしか残っていないというのが当時の迫害の厳しさを物語っています。
さて、イングランド国教会の司祭であったジョン・スミス(1570-1612)はアナバプテストの、
「信仰を自覚した者に対する洗礼」という部分に共感を覚えたようです。
※アナバプテストやメノナイトについては
1-2.ジョン・スミスとは
冒頭にも書きましたが、ジョン・スミスはバプテスト教会の創設者です。よって、彼の生涯の概要をまとめましょう。
- 【1570】イングランドのリンカンシャーで生まれる。
- 【1594】イングランド国教会の司祭になる。
- 【1602】イングランド国教会の批判をしたため辞任させられる。
- 【1606】イングランド国教会から分離した分離派というグループの一員になる。
- 【1608】分離派への弾圧が厳しくなりオランダのアムステルダムに亡命。
- 【1609】バプテスト教会を創設。
- 【1612】アムステルダムで生涯を閉じる。
このような経緯でバプテスト教会の発祥地は、イングランドではなくオランダのアムステルダムになります。
ジョン・スミス自体はアムステルダムで死去するのですが、同年に
ジョンの信奉者であるトマス・ヘルウィスやジョン・マートンによって、バプテスト教会はイングランドにも設立されたようです。
1-3.洗礼と浸礼
[洗礼(バプテスマ)]に話を戻しましょう。
洗礼はキリスト教徒にとって非常に重要な儀式なのですが、
カトリックの洗礼は[灌水(頭に水を注ぐ)]や[滴礼(頭に手で水滴をつける)]なので、頭部のみに行われます。
それに対し、バプテスト教会は[浸礼(全身を水に沈める)]こそが正しい洗礼の方法だと主張します。
イエス・キリストが洗礼者のヨハネから受けた方式が[浸礼]だったからです。
さらに言えば[バプテスマ]というギリシャ語は、もともと「浸す」や「沈める」という意味です。
というわけで、バプテスト教会における[洗礼]の特徴は、
- 信仰を自覚した者にのみ効力を認めるため、幼児洗礼を否定。
- [浸礼]の方式を採る。
となります。
2.バプテスト教会の教義について
バプテスト教会では「信仰を自覚した者」の一人ひとりが積極的に教会を支え、信仰を深めていくことが推奨されています。
よって、積極的な[万人祭司]主義を採用しているようです。
2-1.万人祭司とは
教会を構成するメンバーの中に、身分的な上下関係はもちません。牧師も信徒も神の前に平等の立場であり、信徒は牧師に職分を委託します。
出典元:神戸バプテスト教会
牧師は説教や牧会を担いますが「牧師も信徒も神の前に平等」というのが万人祭司の考え方です。
つまり、信徒たちは自分で聖書を解釈することができるのです。
バプテスト教会では優秀な信徒であれば大学で神学を学んでいなくても説教をすることができました。
これは実質的に牧師が中心となっていたプロテストの中でも異例のことだったようです。
2-2.各個教会主義とは
各個人の信仰心を大事にする傾向は各個教会の独立自主性の重視につながります。
協力が不可欠な伝道や出版事業や社会奉仕に関しては連盟をつくりますが、その際も連盟は各個教会に命令を下すことはできません。
2-3.政教分離
このような上位審級を認めない態度は政教分離の支持にもなります。
しかし、これに関しても神戸バプテスト教会のHPに興味深い記述があったので引用しましょう。
政治(国)と宗教(教会)の混同(癒着)は、人権の抑圧の歴史の証しです。バプテスト教会は、政教分離を主張します。しかしそれは政治への無関心を意味しません。教会は国家を監視し、権力が人権を無視し弱者を軽んじないように声を上げる働きを担っています。国家は神の前に無力であり、人間の思想、良心、内心、信仰の自由に介入することは許されないからです。
出典元:同上
確かに、バプテスト教会は政教分離を掲げているもののアメリカでは国政を動かすほどの政治的影響力を持っています。
この文言を見る限り、
バプテスト教会は信者のみならず人間全体を国家の抑圧から守ろうという気構えを持っているのだと思います。
ただし、このように書くと国家から個人の自由を守る[社会的リベラル]と似ているようですが、
生活態度や歴史認識には保守的で、聖書の世界に忠実であろうとする人々が多いようです。
個人の人権を尊重しつつも、「平等は神の前でのみ可能だ」という認識なのでしょう。
3.イギリスからアメリカへ
バプテスト教会が最も普及している地域は、先ほども触れたアメリカ合衆国です。
それではどのような経緯でバプテスト教会はアメリカに伝わり、そして普及したのかを見ていきましょう。
3-1.一般と特定
第一章の続き。1612年にイングランドにも戻ってくることができたバプテスト教会なのですが、その後、
一般(ジェネラル)バプテストと特定(パティキュラー)バプテストに分裂します。
争点は「誰が救済されるのか」で、
- 一般バプテスト → カルヴァンの予定説に反対する。
- 特定バプテスト → カルヴァンの予定説を肯定する。
という違いがあります。
準備中
この内、全世界で主流になっているのは特定バプテストの方です。
3-2.ロジャー・ウィリアムスとは
さて、バプテストは移民によってアメリカに伝わります。
ロジャー・ウィリアムス(1603-1683)という神学者によってロードアイランドに1839年、最初のバプテスト教会が作られます。
ロジャー・ウィリアムスはロードアイランド植民地の設立者の一人です。また、自身はピューリタンでありながら、
信教の自由を唱えており、当時迫害されていたバプテストやクエーカーやユダヤ教徒なども積極的に受け入れました。
ロードアイランド自体も非常に進歩的で、奴隷制や魔女裁判を廃止するなどの採択をしていたようです。
※クエーカーやユダヤ教については
準備中
3-3.第一次大覚醒
バプテスト教会がアメリカ最大の教派になったのは、18世紀半ばに起こった運動の第一次大覚醒によってです。
この運動の中心人物の一人がジョナサン・エドワーズだったのですが、彼は厳格なカルヴァン主義者でした。
ジョナサン・エドワーズは人々の暮らしが豊かになるにつれ信仰心や道徳心が薄れていっている現状を危惧し、
人々が厳格なカルヴァン主義へ回帰することを主張します。その結果、特定バプテストの方が主流になっていたわけですね。
4.バプテスト教会の現在
アメリカではさらに、南部と北部でバプテストは分かれます。
4-1.南部バプテスト連盟の興隆
大多数の教会は南部バプテスト連盟に所属しており、傾向としては保守的で聖書の無誤性を信じる信徒も多いようです。
[聖書の無誤性]とは聖書には全く誤りがないという立場のことで、
天地創造や聖母マリアの処女懐胎などを信じ、学校で進化論を教えることに反対しています。
というわけで、
原理主義者も南部バプテスト教会の信者には多いようです。
また、南部に多く見られる黒人教会の三分の二がバプテストです。
南部バプテスト連盟は現在では、アメリカ南部の実質的な国教と言われるほど強大な存在になっており、
キング牧師やカーター大統領やクリントン大統領など多くの政治的リーダーも輩出しています。
※ただし先述した通り、政教分離を原則としています。
対する北部バプテスト教会は、南部よりも穏健でリベラルな発想を持っているようです。
4-2.庶民への伝道と日本への伝来
バプテスト教会が[万人祭司]を徹底していることは先ほど触れましたが、この理念は庶民への積極的な伝道にもつながっています。
難しい神学論争を展開するよりも各個人の信仰心や言葉にならない神秘体験を重視するといったイメージです。
日本に対する布教も書きましょう。
- 南部バプテスト連盟からは例えば、宣教師チャールズ・ケルシー・ドージャーが1906年に来日し西南学院大学を設立している。
- 米国バプテスト同盟(北部系)からは例えば、宣教師アルバート・アーノルド・ベネットが1879年に来日し関東学院大学を設立している。
全体的には、南部バプテスト教会は西日本に多く、北部バプテスト教会は関東に多いようです。