徳とは | 中庸の意味もわかりやすく、例を使って解説


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今回は古代ギリシャ哲学でバンバン出てくるにも関わらず、意外とわかりやすく解説されることが少ない[徳(アレテ―)]の解説をします。

徳(アレテ―)は、そもそも哲学用語ではなく普通のギリシャ語です。

よく引き合いに出されるのはホメロスの著作で、

この時代の、徳(アレテ―)とは

ある物が持つ優れた能力のこと。よって、アレテ―は[優秀性]や[卓越性]とも訳される。

例えば、馬の徳(アレテ―)は速く走れること。もちろん、ある人は綺麗なたてがみなどとも言うでしょう。

しかし

ソクラテス、プラトンの探究を経てアリストテレスの頃になると徳(アレテ―)は優れた精神状態のことを指すようになります。

まあ[精神]というより、古代ギリシャ的な言い方では[魂]ですね。

アリストテレスは徳を備えた魂の活動こそが人間にとっての幸福だとしていました。

このようなアリストテレスの思想を中心に、徳(アレテ―)について見ていきましょう。

1.ソクラテス、プラトンにおける徳

[徳]が哲学的関心事になったのはソクラテスの時代です。

[徳]の教育活動を全面に展開したのはソクラテスの20歳くらい年上のソフィストであるプロタゴラスですが、

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プロタゴラス

おそらく、プロタゴラスやソクラテスの頃はまだ[徳 = 優秀な能力]というニュアンスでした。

ところで

ソクラテスが[徳]について関心があったのは「徳を教えることは可能かどうか」でした。

1-1.ソクラテスと徳

「徳を教えることは可能なのか」はソクラテスとプロタゴラスの対談(プラトンの著作、対話篇『プロタゴラス』)にも出てきますが、

本格的に展開されるのは、メノンとの討論(対話篇『メノン』)においてです。

流れはこんな感じです。

  • 徳(特に善や美)を探求しているソクラテスに対して、メノンという青年が「徳は誰かに教えられるものなのか」を問う。
  • ソクラテス、メノンに対し「教えるも何も私には、徳とは何かはっきりわかっていないのだ」と言う。

何かわからないから追い求める(知を求める)は[フィロソフィア]という言い方もされます。

※フィロソフィアはソクラテスの造語で、ソクラテスのポリシーでもあります。

つまり、ソクラテスにとっては、徳自体というよりも

「徳とは何かはっきりわからない」という状態こそが自身の哲学者としてのアイデンティティーを支えていたと言えるでしょう。

1-2.プラトンと徳

さて、メノンの話には続きがあります。メノンはソクラテスに問います。

「徳が何なのかわからないのに、どうやって徳を探すのですか?」

確かに

母親から「ペノリタン買ってきて」と言われても、[ペノリタン]が何なのかわからないので探しようがないですよね。

そこでプラトンが提示するのが、あの有名な[イデア論]であり[想起(アナムネーシス)]です。

というわけで、プラトンにとっても徳は自身の哲学の中核に関わるものだったようです。

2.アリストテレスにおける徳

[徳]をある種の望ましい精神状態に限定し、これが幸福にもつながるとして大々的に探求したのはアリストテレスです。

2-1.能力を発揮する

もちろん、幸福は[徳]とだけ関係があるわけではありません。

アリストテレスは「各個人が持っている能力をいかんなく発揮することが幸福である」と考えました。例えば、

  • 彫刻家彫刻を彫ることに能力を発揮する。
  • 靴職人靴をつくることに能力を発揮する。

このように、何らかの職種と能力が関係している場合はわかりやすいのですが、人間一般にとっての幸福は一体何なのでしょうか。

2-2.人間固有の能力とは

先ほどの幸福の定義を人間に当てはめると、「人間にとっての幸福とは人間固有の能力を発揮しながら生きること」となります。

そして

人間固有の能力というのが「徳を備えた魂の活動」です。

アリストテレスは魂が備えるべき徳を[知性的徳]と[倫理的徳]に分け、それぞれ考察していきます。

2-2-1.知性的徳とは

英知(ソフィア)あるいは直観知(ヌース)思慮(フロネーシス)という知的な能力のこと。

英知や直観知は観想(テオリア)という「神の思惟」と類縁のものに関する知識で、この上なく素晴らしいものとされています。

もっと人間的な活動に関わるのが思慮(フロネーシス)です。

[思慮]は快苦に関わる衝動や欲望などの魂の不安定な部分を手なずけ、魂を中庸(メソテース)の状態にする能力のことです。

2-2-2.倫理的徳とは

勇気・節制・誇り・寛大・穏和・機知・友愛・正義などの客観的に見て善いとされる性格にかかわる能力のこと。

これらは完全に生まれ持ったものでも、完全に後天的なものでもなく、

生まれ持った可能性が、中庸を保った行為を繰り返す[習慣づけ]のプロセスを経て、勇気などの倫理的徳になるといった感じです。

※アリストテレスは[可能性]と[現実]という要素を哲学に持ち込んだ最初の人物です。

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[性格(character)]は古代ギリシャ語で「刻み込まれたもの」という意味なのですが、アリストテレスにおいては、

既に倫理的徳を持った人の行動を模倣(ミメーシス)することで、生まれ持った可能性を引き出していくというニュアンスです。

※[模倣(ミメーシス)]はプラトン哲学では低俗なものとされていました。

[習慣づけ]というプロセスはかなり重要で、気まぐれで勇気ある行動をとったとしても、その人は「善い人」とは見なされません

やはり

[習慣づけ]によって勇気という徳を身につけた人が勇敢な行為をした場合でないと、本当に徳のある善い人だと判断できないのです。

このように、何らかの倫理的徳を身につけた状態を[持前(ヘクシス)]と言います。

この人は勇気の持前がある、あの人は機知の持前がある、など。

2-3.エートスとの関係

倫理的徳は[エートス]と関係があります。ザックリ言うと、

エートスとは

習慣によって形成される精神のことで、主に社会集団の中で育まれる。

よって、社会全体が善くないと倫理的徳は育まれないのです。

この辺りは「人間はポリス的動物である」と言ったアリストテレスの哲学がよく反映されていると思います。

※ちなみに、知性的徳は学習によって育まれるようです。

2-4.中庸とは

[中庸(メソテース)]はアリストテレス哲学の中でも比較的有名で、名前くらいなら知ってる方も多いのではないでしょうか。

意味は「超過せずに、ほど良い状態」です。

例えば

[恐怖]、そしてその反対の[平然]もそれ自体が悪いわけではありません。度を超すことが悪いのです。

恐怖と平然の中庸は[勇敢]なのですが、

  • 度を越して平然とし、恐怖が足りない →[無謀]
  • 度を越して恐怖して、平然が足りない →[臆病]

というふうに言われます。他には、

快楽と禁欲の中庸は[節制]。

  • 度を越して快楽を求め、禁欲が足りない →[放埓]
  • 度を越して禁欲をして、快楽が足りない →[無感覚]

名誉と羞恥の中庸は[誇り]。

  • 度を越して名誉を感じ、羞恥が足りない →[傲慢]
  • 度を越して羞恥をして、名誉が足りない →[卑屈]

などがあります。

なお

悪意]のような感情や[殺人]のような行為は超過したや不足は関係なく、それ自体が悪いとされます。

以上をまとめると、

思慮を働かせて中庸を保つことを繰り返すことで倫理的徳は身に付く

となります。

以上です。ありがとうございました。
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